防貧・格差是正としての最低賃金制度:韓国の事例の再検証

 本研究は最低賃金制度が持つ役割や効果の社会的側面について改めて検証することを目的とする。特に注目したいのが日本では酷評されている韓国の最低賃金引き上げ政策である。
 韓国では2017年から始まる文政権下での所得主導成長政策に基づき、2018年には最低賃金引き上げ率16.4%、2019年には10.4%と大幅な引き上げが行われた。その後この大幅な引き上げによる雇用の減少といった影響を巡り韓国国内では様々な論争が巻き起こり、日本では文政権による引き上げ政策は「大失敗」と評価されている。韓国国民の反応としても今後の最低賃金の大幅な引き上げに対しては慎重な姿勢を見せている。しかし、ここで疑問を呈したいのは、果たして本当に韓国の最低賃金引き上げ政策は失敗だったのか?ということである。果たして本当に日本で言われているように韓国の最低賃金引き上げ政策はすべての面で負の結果をもたらしたのだろうか、その後最低賃金が持つ本来の期待効果は見られなかったのだろうか。この疑問を解消するために本研究では最低賃金の大幅な引き上げ前後における韓国国内の主要なマクロ経済指標を検証し、さらに最低賃金引き上げの効果に関して実証的に検証を行っている文献・研究に限定し収集・メタ分析を行った。
 収集した文献は17件であり、主な争点となっているのが “最低賃金引き上げが雇用数に影響するのか?”ということである。研究動向を見る限り最低賃金引き上げが雇用に影響を与えるか否かに関してはいまだ経済学者や専門家の間でも結論には至っていないことがわかる。ここで一つ重要なことは最低賃金引き上げが雇用・経済に及ぼす影響については分析対象や分析時期、分析手法などの研究方法によって結果が大きく異なってくる、ということである。最低賃金と雇用の関係についてはいまだ共通した合意が採られておらず短期的な結論を出すことには限界がある。しかし本研究で着目するのは、最低賃金が雇用や経済的側面に影響を及ぼすか否かということではなく、社会的側面から見た最低賃金引き上げの重要性である。2018~2019年に韓国の最低賃金引き上げが賃金不平等縮小に及ぼす影響を分析したキム・ユソン(2020)は労働時間短縮などの対応により賃金格差に副作用が起こる可能性を指摘しながら、2018~2019年の最低賃金引き上げが低賃金階層の賃金上昇と賃金不平等の縮小、低賃金階層縮小に正の効果があることを明らかにしている。さらにキム・ジョンスクほか(2020)は最低賃金制度と男女の労働者の賃金に関する実証的分析を行い、その結果として最低賃金は毎年上昇しているが、2006~2009年、2012~2015年には最低賃金水準と性別格差間の関連性はほとんど見られず、最低賃金が大幅に引き上げられた時期に多少の関連性が見られ性別間の賃金格差が多少ではあるが是正されることがわかっている。また、ソン・ギョンアほか(2019)は最低賃金の上昇がHospitality産業の生産性増加に正の影響を及ぼすことを明らかにしているが、結果によると最低賃金上昇が生産性向上に影響を及ぼすには2年の時間がかかることがわかった。最低賃金の引き上げが“低賃金階層の縮小”、“賃金格差の是正(高/低賃金間、男女間)”に正の影響を与えること、そして長期的には生産性の向上に影響を与える可能性がこれらの文献から明らかとなっている。つまり、最低賃金の引き上げが少なくとも格差や貧困の解消に寄与していることが明らかとなった。
 本研究での検証をまとめると、雇用への影響に関しては、いまだ経済学者間で合意が取られていない状況であり結論としては“わからない”。文献で言われるような負の効果が一時的なものなのか長期的なものなのかについても論争が分かれているが、少なくとも最低賃金制度の社会的な側面への機能、つまり不平等・格差の是正や防貧の役割として機能することは全体的に合意が取られている。ただ日本、韓国両国とも国民の実感としては「失敗政策」であり、特に就職難と失業率の高さが社会問題化していた若年層の間では今後の最低賃金引き上げに対して慎重な態度をとる傾向が見られる。しかし、韓国ではその後もおおむね最低5%以上の引き上げ率を維持しており、労働者代表側が依然として最低賃金制度を強く支持しており堅固な姿勢を見せている。そして最後に述べたいのは、いまだ残される日本の最低賃金に纏わる問題である。日本の場合、韓国で争点となっている雇用を減少させるかどうか以前の問題であり、他の先進国と比べ著しく低い水準(2019年フルタイム賃金に対する最低賃金の水準を見ると、ニュージーランドが0.66、フランスが0.61、韓国が0.63となっていることに対し日本は0.44)に留まっている。日本の最低賃金は長らく(いまだ)「家計補助的賃金」としての位置づけであり、現在の最低賃金の水準は25歳単身者モデルの最低生計費すら保障することができていない(ワーキングプア問題)ことが問題視されている。韓国では最低賃金の大幅な引き上げと雇用への影響に関してはいまだ結論が出ていないものの、社会的側面への肯定的な影響は明確に示されている。日本においても家計補助的賃金水準ではなく、労働者の権利や最低限の生活を保障する、格差是正といった制度本来の機能を発揮できる水準への見直しが必要である。

研究員:松田郁乃